森川鉄道(架空)

森川の設定

・(参考)森川圏観光図(2007年度版/森川圏観光協会)


・森川の地の歴史
森川の地は、桃山の頃に村ができ、人が住むようになったと言われています。
その頃から、森川では陶磁器の生産と織物を産業としてきました。
その豊富な水源と盛んな産業から、江戸時代には森川藩となり、
東海道と中山道を結ぶ街道の宿場町として栄えました。
京山城・森川城という城があり、両者とも鉄壁の要塞として有名だったそうです。

明治の頃に、森川南方に港ができました。
また、早くから鉄道技師などのイギリス人が移住し暮らすようになりました。
鉄道建設の折には、森川中心地に駅を建設するよう、大規模に運動が繰り広げられましたが、
森川は周囲を山に囲まれているだけでなく、東海道からも外れており、
結局森川はルートから外され、以後宿場町としては一時的に衰退しました。

昭和の頃になると、良質な土や土地の利を生かした、
軍需工場や製鉄所の建設が盛んになりました。
しかし、それらは皆森川南部地方の話であり、依然として山間の森川中心部は古い宿場町のままでした。
戦中は南部は激しい空爆を受け、戦後は進駐軍の駐留地として再び外国人が増加しました。

高度経済成長期、森川は大規模に開発されました。
いつしか豊橋や浜松と並ぶ都市になり、森川に本社を置く企業も増えました。
宿場町は江戸情緒を色濃く残す町であり続け、折からの観光ブームにも乗って、観光客が増加しました。
南部の工業地帯は製鉄業・製紙業・紡績工業などで発展しました。
最近、国際的に躍進を続ける「帝国製紙」が森川に本社を構えたのもこの頃です。
また、東海道から中山道に抜ける国道が整備されると、森川は中継地として注目されるようになりました。

平成に入り、バブルが崩壊すると、大規模な工場の撤退が相次ぎました。
工場跡地には公園やショッピングモールが整備されるようになりました。
また、通勤圏の拡大に伴い、森川にも団地が作られるようになり、
平成初期には相次いで地下鉄の開通がありました。

ここ近年は市内道路の拡張が盛んに行われています。
また、環状道路や市内のアウトバーン(無料高速道路:森川市独自のシステム)も整備されるようになりました。
市内中心部には地下道や公園も整備され、駅前にはタワービルの建設も始まりました。

・森川の気候
森川は冬がとても寒く、夏はとても暑い土地です。
また、冬季は降雪量が太平洋側にしてはとても多く、古くから雪害に悩まされてきました。
一方で梅雨時や夏季の降水量がとても多く、江戸時代から積極的に河川の整備が行われてきました。

・産業
森川は古くから陶磁器の生産が盛んです。
森川の独特な気象条件から、他にはない華やかな模様の茶碗や器の生産が行われています。
また、製紙業も盛んで、森川に本拠地を置く帝国製紙は、特殊紙販売で大きな利益を上げています。
かつては製鉄業や紡績も盛んでしたが、最近は名古屋へ移転する工場が多く、主産業からは遠のきました。
一方で、森川に本社を置く「帝国製紙」は、ここ数年特殊紙販売や医薬品開発、
コンピューター事業などで成果を次々挙げており、世界的にも有名な大企業となっています。

・森川の人間の特徴
古くから森川に住んでいる人は、独特の方言を使うのが特徴です。
東濃との繋がりが深いため、東濃弁を変形させた方言を使います。

森川の人は車の運転が上手です。
交通事故件数は、降雪量の割に少ない水準を保っています。
公共交通利用率が高く、近年まで「渋滞の無い町」として有名でした。
近年は人口の増加により、自動車交通量は増加しましたが、
依然として高い公共交通利用率を誇ります。

森川は一年間の書籍販売量が日本一です。
また、携帯カイロの消費量がとても多く、石油消費量が比較的少ないのが特徴です。

・その他文化など
早くから外国人が住んでいたこともあり、西欧風の建築や文化が各所で見られます。
中でも、森川南部の黒河市はドイツと独自の交流を持ち、留学生などを積極的に受け入れます。
戦後は進駐軍の駐留地として、米軍住宅などが建設されました。
現在も外国人が多く、特にイギリス・ドイツなど西欧の人間が多いのが特徴です。
外国人からの人気も高く、フランスの雑誌で大々的に特集を組まれて紹介されました。

森川は雪が多いことから、高層建築であっても屋根が傾斜する傾向があります。
古くは京町百貨店が採った方式であり、近年はショッピングセンターであっても斜め屋根を持つものがあります。


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